悔い改め -使徒の働き2章 

2019年5月26日宮古めぐみキリスト教会説教 前回、イエス様が教会に与えられた、ご自分の証人となる宣教の使命について見ました。今日は、教会が聖霊を受けてから、どうやってその宣教を担っていくのかを学びたいと思います。イエス様がご自分の証人にどんなメッセージを与えたのかを見ていきます。そのために、使徒の働き2:38にフォーカスしたいと思います。 この箇所でペテロが「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と言っています。 これは、神様が、福音に対して人間がどのように反応することを願っておられるのかを表しています。つまり、どうやって人がクリスチャンになるのかを表しているということです。                    使徒の働き2章の最初の部分で、エルサレムの教会のすべてのメンバー、120人ぐらいが御霊を受けました。使徒の働き1章でイエス様が命じられた通りに、イエス様の弟子たちは聖霊に満たされると、すぐに、イエス様の証人となって、エルサレムの町に出ていって、エルサレムにいたすべての人に福音を伝え始めました。                    この120人の弟子たちが福音を伝え始めると、御霊は彼らに色々な国の言葉で話す力を与えられました。12人の使徒たちだけではなく、男性と女性、年寄と若者、お金持ちとまずしい人々、教会のすべてのメンバーが、この御霊からの力をいただきました。それは奇跡でした。 心を指さる知らせい                    この素晴らしい出来事はユダヤ教の七週の祭、つまり、ペンテコステと言う祭りの間に起こりました。世界中から、多くのユダヤ人たちが、その祭りをお祝いするために、エルサレムにのぼりました。このユダヤ人たちはとても熱心な礼拝者で、旧約聖書の預言について詳しく理解していました。そして、預言されたダビデの子孫である、永遠の主、キリストを待ち望んでいました。様々な国から来ていた巡礼者たちは、自分の言語で福音が伝えられるのを聞いて、驚いていました。大勢の人たちがこの不思議なことを見るために、集まりました。それからペテロが、最初の説教を語りました。その説教の結論が36節にあります。 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。 使徒の働き2:36 ペテロの結論は、あなたたちがキリストを十字架につけたのだ、と言ことでした。あなたたちは、預言された、待ち望んでいた、神様があなたたちを救うために送った、永遠の王を殺したのだ、ということでした。またそのイエス様は死んだままではなくて、死から復活して、天にのぼり、神様の右の座にいて、統治されている、というのです。それはそこにいたユダヤ人たちにとって、とても悪い知らせでした。自分たちが待ち望んでいた王様を見分けられなかっただけではなくて、彼を裏切って殺してしまったというのです。しかも、イエス様はその大きな力によって復活されて、天の王になっている。そのイエス様が、これから自分たちに対してどんな罰を下すのだろう、と人々は恐れたと思います。イエス様が復讐するかもしれないと思ったでしょう。 人々はこれを聞いて、心を指され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。 使徒の働き2:37 ここでユダヤ人たちは「私たちはどうしたらよいでしょうか」と言っています。自分たちにできることはあるのか?希望はあるのか?この重大な過ちをただすことはできるのか?それとも、永遠の滅びに向かうしかないのか?私たちはどうしたらよいでしょうか。 それに対してペテロが言ったことはこうです。。 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなた方の子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。 使徒の働き2:38-39 できることがあります。希望があります。 それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、自分が殺された、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 これは福音です。2千年前のその日に、ペテロは今日も変わらない同じ福音を伝えました。その福音は、まず、私たち、皆が罪びとで、神様の前に有罪判決を受けた人のように、自分を救うことができない者だ、ということです。次に、私たちが神様の怒りにふれたのにも関わらず、神様がご自分の一人子のイエス・キリストを、私たちの罪のために十字架で死ぬために送られたこと、イエス様が復活されて、天に上がったことです。さいごに、だれでも、イエス様を信じて、悔い改めれば、救いと聖霊を受けることです。 悔い改めとはどういうことか 今日フォーカスしたいテーマは、悔い改めとはどういうことか、ということです。 悔い改め、という言葉はギリシャ語で「メタノエオ」という言葉で、「後」という言葉と「考え」という二つの言葉が合わさってできた言葉です。その意味は、後で違うように考えることや、考えを変える、と言う意味です。ですから、悔い改めるというのは外側の行いを改めるだけではなくて、考え方や、心を改めることなんです。聖書の中の使われ方をみると悔い改めには3つの要素がありそうです。 「後悔」 「告白」 「改める」 日本語の「悔い改める」という言葉は聖書の意味ととても近いと思います。しかし、この三つの要素をかんがえると、このような悔い改めるをするのは、人間的に無理なことだとわかります。 まず、後悔について考えましょう。37節で、ユダヤ人たちがペテロの説教を聞いて、心をさされたと書いてあります。彼らは自分がとても悪いことをしたんだと気づいて、イエス様を殺さなければよかった、と思いました。つまり後悔したわけです。 人が後悔する時、二つの理由があると思います。一つは、したことの結果が悪いから、後悔をする時です。そのような後悔が多いのではないでしょうか。たとえばある夫が浮気をしたことに妻が気づいて、離婚になれば、夫は浮気したことを後悔するでしょう。しかし、妻が気づいていない場合は、後悔しないんではないでしょうか。このように、悪い結果が出たからするような後悔は正しい悔い改めにつながりません。 二つ目の後悔、または正しい悔い改めに導く後悔というのはは、結果が悪いからではなくて、自分が悪かったと気づくから起こるものです。つまり、自分がやったことが、神様に逆らうことだと気づくことから起こるものです。御霊に私たちの心をさされることによって起こる後悔です。その場合、罪を犯さなければよかったと思うのは、犯した罪の結果がつらいからではなくて、自分の愛する神様に対して罪を犯したこと自体に対する後悔なんです。 次に、「告白」ということについて考えましょう。ユダヤ人たちは37節で、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言っています。これが彼らの罪の告白でした。「私たちはイエス様を殺していない」と否定するのではなく、ペテロが言ったことは正しいと認めて、自分たちが恐ろしい罪を犯したことに気づいて、「私たちはどうしたらよいでしょうか」と言っているのです。これが、悔い改めの大切な部分の二番目である告白ということです。罪を犯したという告白はとても珍しいことではないでしょうか。多くの人は罪を犯したら、その罪を隠そうとします。しかし、聖書によると、赦しを受けるためには、罪を告白しなければなりません。 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神の言葉はありません。 ヨハネの手紙第一1:9-10 罪を告白できるためには、聖霊の助けが必要です。 最後に、悔い改めの大切な部分の三番目は「改める」ということです。これが悔い改めの一番難しいところかもしれません。最近妻が、今日本で人気の歌手について話していました。その歌手は何年も前にとても人気でしたが、彼が浮気をしてしまって、スキャンダルになりました。彼は謝罪しましたが、人気をなくしてしまいました。そこから何年も、一生懸命頑張って、ついに新しい歌が大ヒットになりました。しかし、最近彼がまた浮気をしてしまったそうです。前回同じことがあった時は、人気がなくなったという悪い結果があったから後悔したと思います。また、週刊誌に載ってしまったから謝ったと思います。でも、また同じ過ちを犯したのを見ると、彼の心の中に変化がなかったことは明らかだと思います。 聖書の教える正しい悔い改めというのはもっと深いことです。正しい悔い改めは行動を改めるだけではありません。犯罪者が捕まって、厳しい罰を受けると、その罰をまた受けるのが恐いために、犯罪を犯さなくなるかもしれません。その場合、その人は悔い改めているんでしょうか。そうではないと思います。その人の心の中には、また同じ犯罪を犯す誘惑があるかもしれません。もし罰を受けないとなれば、また同じことをするかもしれません。その人の外側を見ると、罪を犯していないので、周りの人は悔い改めたんだ、と思いますが、その人の心が見えたなら、悔い改めていないことに気づきます。しかし神様は、すべての人の心を見ておられます。 悔い改める力は神様からの賜物 悔い改めの三つの要素をよく考えると、実は正しい悔い改めをするのは人間には無理なことだと気づきます。後悔して、告白して、改める、の全部があるのはとても珍しいことです。一つのとても悪い罪から悔い改める人はいるかもしれませんが、自分から、人生のすべての罪を悔い改めて、自分の人生のすべてが神様の目の前に汚れたものだと認めて、神様の怒りと正しい罰に値すると告白できる人はいないと思います。聖霊の助けが絶対に必要です。つまり悔い改める力は実は、神様からの賜物なんです。使徒の働き11:18で、悔い改めは神様が与えたことだと書いてあります。 人々はこれを聞いて沈黙した。そして「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にも与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。 使徒の働き11:18 悔い改めるというのは謝ることだけではなくて、外側の行動を改めることだけでもありません。悔い改めるというのは、新しい人になることです。バプテスマはこの事実を表すものです。バプテスマは救いを受けるためにすることではなくて、神様に救われて、聖霊をいただいて、心を変えてからすることです。バプテスマは救いの条件ではなく、救われたことへの私たちの応答です。バプテスマは神様が私たちの心の中ですでにしてくださった働きを表しています。 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのでありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。私たちがキリストの死を同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。 ローマ人への手紙6:3-5 バプテスマは、主イエス・キリストが死んで復活したように、私たちもある意味で、死んで、復活することを表しています。バプテスマを受けるとき、水の下に入るのは死を表しています。私たちは罪に対して、以前の汚れた生き方に対して、死ぬことになりました。以前は、自分の満足のために生きていて、肉の知識や力を求めていましたが、そのことに対して、死ぬことになりました。以前は正しくない神や霊に仕えていましたが、それに対して、死ぬことになりました。以前の私たちが死ぬのです。 それから、水から上がるのは復活を表しています。私たちが新しい人になったことを表しています。その新しい人は神様のために生きていて、神様の知識や力を求めて、神様だけに仕えることになります。私たちは新しく生まれます。聖霊を通じて、生き方だけでなく、考え方も、愛においても変わります。バプテスマの儀式自体がこの変化をもたらすのではなくて、聖霊がこの変化をもたらしてくださったから、人の前でそれを表すために、また新しい生き方をすると告白するために、バプテスマの儀式に参加するんです。 悔い改めは神様からの大切な賜物の一つです。それは聖霊が私たちの心の中に働いて、自分の罪を私たちに示し、罪に対する後悔と罪の告白に導いて、心から改める力を与えてくださっている証拠です。悔い改めはクリスチャンになる時に必要なことですが、クリスチャンの生活の中では継続的なことでもあります。クリスチャンになってから、神様が私たちを完全な者とさせる働きを始めます。聖霊が心に入ると、罪を犯すとき、聖霊がすぐに私たちにそれを示して、罪に対して敏感になります。聖霊は私たちを、罪を告白し、罪から離れる生活に導きます。少しずつ、イエス様の姿のようになります。 私の祈りと願いは、この集まりの中で、悔い改めが生活の中の普通の一部になることです。私たちが自分の罪を隠すのではなくて、聖霊を通して罪を告白する勇気を与えられて、互いに聖くなるように応援できることを願っています。また神様がエルサレムにある教会のすべての人の上に聖霊を注いで、罪の許しを得させる悔い改めを宣べ伝えたように、私たちの上にも聖霊を注いで、この所に住んでいる人たちに罪の許しを得させる悔い改めを宣べ伝える力を与えてくださるように祈っています。

イエス様の証人となる - 使徒の働き1:8

2019年5月12日宮古めぐみキリスト教会説教 ちょっと想像してみてください。あなたがある日仕事に行くと、上司から大切な話しがある、と言われます。自分は長期出張に行かなければならないので、これから日々の仕事は君にまかせるけど、君のことを信頼している。君には教えられることは全部教えたので、自分がいない間も君が良い仕事を続けてくれるだろうから、会社は安泰だと信じている、と伝えられました。これを聞いたら、どうしますか。緊張はあるかもしれませんが、もし上司があなたのことを本当に信頼して、仕事を丁寧に教えてくれるようないい上司だったら、一生懸命その方針に従うと思います。 今日は、主イエス様が私たちに、イエス様の教会として、ご自分がいない間に何をするように命令されたのかについて学びたいと思います。 これから使徒の働きの学びを始めたいと思っています。使徒の働きは新約聖書の四番目の書で、筆者はルカの福音書を書いたルカです。ルカは歴史家で、また使徒パウロの友人でした。使徒の働き1:1-2を見てください。 テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に挙げられた日までのことでした。 使徒の働き1:1-2 ここで言っている「前の書」とはルカの福音書のことで、使徒の働きはある意味でルカの福音書の続き、つまりパートツーと言えます。ルカの福音書はイエス様の伝記のような内容で、使徒の働きは教会の伝記とも言えると思います。使徒の働きを読んで驚くことは、この伝記には結末がないんです。その話は急に終わります。 使徒の働きの最初で、イエス様が使徒たちに命令を与えてから天に上がられ、そのあと使徒たちが宣教の働きを始めます。ですからその最後では使徒たちが受けた働きを完了するのだろうと思うところですが、最後の28章を見ると、その働きは終わらないままなんです。 これがとても大切な点だと思います。使徒の働きに結末がない理由は、この働きが今も終わっていないからです。これはどうやって教会がはじまったのか、どうやって教会がイエス様の宣教の働きを担うのかという話しで、私たちも実はこの話の一部なんです。私たちは現在日本にある地域教会で仕えていますが、この働きは使徒たちが始めた働きの続きだということを覚えていなければなりません。イエス様が使徒たちに与えた働きはまだ終わっていないので、今の時代の私たちには、イエス様に従ってその働きを続けていく責任と喜びが与えられています。この働きを通して、イエス様の栄光が現わされ、私たちの中で、また私たちの周りの人達の中で、イエス様の偉大な力が働かれるのを見ることができるんです。 イエス様が使徒たちに与えた 命令 は私たちにも与えられてのか。 しかし、聖霊があなた方の上に臨む時、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となります。 使徒の働き1:8 イエス様が残った11人の使徒たちに、聖霊を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、イエス様の証人となるという命令を与えられました。この命令は具体的にどういう意味なんでしょうか。それを考える前に、まず、とても大切な質問があります。それは、この命令はこの11人の使徒たちだけに与えられたのか、それともすべてのクリスチャンに与えられているのか、ということです。1:2で、イエス様は「お選びになった使徒たちに命じた」と書いてありますが、この命令はその11人だけに対して与えられたという意味でしょうか。そうではないと思います。この命令、この働きは、すべてのクリスチャンに与えられたと私は信じています。その三つの理由を上げます。 1.まず、使徒たちに聖霊が与えられた大切な理由の一つは、彼らがこの働きを担う力を与えられるためで、同じように、もし誰かが聖霊を与えられたなら、その人にもその働きに参加する召しが与えられている、ということになるからです。すべてのクリスチャンにイエス様から聖霊が与えられていて、聖霊を通じてイエス様の宣教の働きを担う力を受けている、ということです。つまり、すべてのクリスチャンにこの命令が与えられているということです。 2.次に、この11人の使徒たちはこの命令を受けてからすぐに、別のクリスチャン達をこの働きに加えています。この1章の中では、11人の残っている使徒たちがユダの代わりの人を選びました。2章では、使徒たちだけでなく、エルサレムにいたすべてのクリスチャン、120人が聖霊を受けて、イエス様の証人として福音を伝え始めました。使徒の働きの最後までを見ると、数十の教会と数千人のクリスチャンがこの働きに参加しています。 3.この命令が、11人の使徒たちだけでなく現代の私たちにも与えられていると信じる3つ目の理由は、イエス様が与えられた大宣教命令です。 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが支持された山に登った。そしてイエスに会って礼拝しました。ただし、疑う者たちもいた。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じたおいた、すべてを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いcつもあなたがたとともにいます。 マタイの福音書28:16-20 20節を見てください。使徒たちがあらゆる国々に行って、イエス様の弟子になりたい人にバプテスマを授けて、その次に何をするように命じていますか。 「私があなたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」と命じています。 この「あなたに命じておいたすべてのこと」には、大宣教命令自体も含まれています。つまり、その新しい弟子たちが、さらに新しいイエス様の弟子を育てて、その次の世代の弟子たちにもイエス様が最初の弟子たちに命じたすべてのことを守るように教える、ということです。このようにして、どんどん、私たちまで、イエス様が命じた大宣教命令がリレーされ続けました。 ここまで3つの理由を見てきましたが、これらのことが意味するのは、もし私たちがイエス様の教会の一部分とされ、イエス様から聖霊を受けて、バプテスマを受けたなら、また、イエス様に従うように教えを受けたなら、そうであるなら、私たちはイエス様から、聖霊の力を通してイエス様の証人となり、その宣教の働きに参加する命令を受けている、ということです。イエス様が11人の使徒たちに命じた命令は、こうして私たちにも与えられているんです。 この命令が具体的にどういうことなのか。 しかし、聖霊があなた方の上に臨む時、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となります。 使徒の働き1:8 8節によると、宣教の働きをするためには聖霊が必要であることです。そこから今は、この節の最後の部分「そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となります。」と言う部分にフォーカスしたいと思います。 この部分を理解するために、地理について考えてみましょう。イエス様は4つの場所をあげています。それはエルサレム、ユダヤ、サマリア、また地の果てまで、という4つです。 まずエルサレムは町でした。エルサレムには主の宮があって、ユダヤ人たちにとって、一番大切な町でした。またイエス様が殺された場所、そしてイエス様が復活された場所も、エルサレムでした。またエルサレムはイエス様の弟子たちが聖霊を受けたところで、その町でイエス様の証人として福音を伝え始めました。 次に、ユダヤとサマリアで福音を伝えると書いてあります。この時イスラエルはローマ帝国の支配下にあって、ローマ帝国は広い領域をたくさんの地方に分けました。ユダヤとサマリアはその二つの地方でした。エルサレムはユダヤ地方の中に位置していて、サマリアはユダヤのすぐ北の地方でした。この地方は日本の都道府県と似ていると思います。 最後に、地の果てまでという意味を考えましょう。「果て」と言う言葉はギリシャ語で「エスカトス」という言葉です。「エスカトス」は、一番遠いとか一番最後、と言う意味です。ですから、地の「エスカトス」まで、というのは、エルサレムから一番遠い所まで、また、福音がまだ届いていない最後のところまで、イエス様の証人となるという意味です。 これが特に素晴らしいことではないでしょうか。イエス様の十字架は、エルサレムにいる熱心なユダヤ人たちだけのためではなく、ユダヤ地方に住んでいる人のためだけでもなく、地の果てまで、つまり、世界中でイエス様を信じる人がおこされるためでした。福音は、この世界に住んでいる人すべてが神様に対して罪を犯して、神様の怒りを受けるべきだったのに、誰でも、どこでも、悔い改めて、イエス様を信じるなら、イエス様の死を通して赦しを受ける機会がある、そして自分の創造者である神様の元に戻ることができるという、素晴らしい知らせです。 またこの箇所から、イエス様にはご自分のご計画を達成するために具体的な戦略があったことが分かります。まず距離が近い人に福音を伝えてから、距離が遠くにいる人にもどんどん福音を伝えるということです。まず、弟子たちがいたエルサレムで福音を伝えて、そこから、ユダヤ地方全体に、そしてユダヤの隣のサマリア地方に広げていって、最後には地の果てにまでイエス様の証人となって福音を伝える、ということでした。これはたとえば、宮古市から始めて、岩手県、青森県、そして地の果てまで、イエス様の証人となる、というように私たちに当てはめられるかもしれません。 この戦略はもう一つの視点からも考えることができると思います。それは距離的な近さだけではなくて、私たちがまず関係が近い人に福音を伝えて、そこから関係が遠い人にも福音を伝えていく、ということです。イエス様の弟子たちはエルサレムに住んでいたので、ユダヤに住んでいるユダヤ人たちと近い関係にありました。サマリア人とユダヤ人の間には敵意があったので、サマリア人に福音を伝えるのは弟子たちにとってもっと難しいことでしたが、実は、ユダヤ人とサマリア人は歴史や文化の多くの部分を共有していたんです。同じ言語を使っていましたし、お互いの宗教についても理解がありました。しかし、地の果てにまで福音を伝えるのはもっともっと難しいことでした。エルサレムから距離が遠くなればなるほど、言語も違うし、文化も宗教もよく分からない人たちに福音を伝えなければなりませんでした。つまり宣教師になるということです。そのために、いろんな準備をしなければなりませんでした。 どうやって、日本に住んでいる私たちが、この命令に従っていくことができるのか 今日のメッセージの最後に、どうやって、今日本に住んでいる私たちが、この命令に従っていくことができるのかを考えたいんです。ある意味で、私が今住んでいる宮古市はエルサレムから最も遠い地の果てともいえるところだと思いますが、私にとってもっとふさわしい視点は、宮古市は私のエルサレムだということです。今日学んだ使徒の働きの1:8に、私たちがならうことのできる形が出てきました。 まずは、私たちが今神様に置かれているところで始めるということです。神様は宮古で私たち一人一人をそれぞれの地域に置いて、私たちの生活の中に、家族や近所の人、友人、親戚、同僚、お客さんなど、近い関係を持つ人を置いてくださっています。まずその人たちに対してイエス様の証人となることが必要です。 次に、どうやって、この地域に住んでいるまだ会ったことのない人たちに福音を伝えられるかを考えることも必要です。イエス様の働きに参加するために、すべてのクリスチャンが宣教師となって遠い所に引っ越さなくてもいいんです。同じところに住み続けるクリスチャンは、その地域に住んでいるすべての人が福音を聞くまで、働きを続けることが必要です。たとえば、教会のイベントを手伝うとか、新しい人と出会うために地域の活動に参加してみるとか、あまり知らない近所の人と関係を作るのもいいと思います。 最後に、どうやって日本全体の宣教、また、世界の宣教をサポートできるのかも考えなければなりません。たとえば、日本の他の教会と協力して、教会開拓の働きをサポートするとか、海外にいる宣教師のために祈って経済的にサポートすることもできます。私の祈りと願いは、将来、この教会開拓が宮古市の中で、また、岩手県で、新しい教会を生み出す教会になることです。 これから、宮古市で新しい教会を開拓していくにあたって、どうやって私たち一人一人が、周りの人に対してイエス様の証人となることができるのか、考えて祈ることが必要です。また、どうやって私たちがイエス様の教会として、宮古市から地の果てにまでイエス様のために証しをできるのか、ともに考え、祈っていきましょう。